島で「幸せなターン」をしている人々にお話を伺い、その物語を共有する『HAPPY TURN/神津島 通信』。
今回は、神津高校3年生の授業「人間と社会」の一環で、NPO法人神津島盛り上げ隊に体験学習に来た小林遼太郎さん、清水千朝さん、鈴木海音さんの3名と一緒に制作しました。
「島暮らしを前向きに楽しんでいる先輩は誰だろう?」と、インタビュー候補を考えるところからスタート。


みんなで話し合った結果、海音さんのバイト先である、「清水冷機」の社長兼、ジュニアバレーボールチームの監督として活躍なさっている清水俊克さんに、子どもの頃から現在の生活に至るまでを高校生の視点からインタビューしました。
高校卒業後は進学のために島を出る予定の3人。俊克さんは一度島を出た先輩の1人でもあります。高校生3人の目に、俊克さんの生き方はどう映ったのでしょうか。最後の感想まで是非ご覧ください。

 

~神津高校3年生がインタビュー~

「今後もバレーボールを通して地域とかかわっていきたい」
島生まれの優しい社長が、バレーボールを島で教える理由

 

清水 俊克(しみずとしかつ)さん
年齢|52
職業|清水冷機代表取締役社長・神津島ジュニアバレーボールチーム監督
島在住|27年目
出身地|東京都神津島村

 

子どもの頃は島でどんなことをして過ごしていましたか?
小学生の頃は、山であけびを採ったり、海で泳いだりしていました。他には、「むし」っていうゲームがあって、離れたところに陣地を2つ作って、ボールを投げる鬼に捕まらずに何往復かすると勝ちってゲームなんだけど、それを毎日やっていました。朝6時に学校に行ってボールキャッチを練習したり。村の中でも年中やっていましたね。
中学の時はみんなで海に泳ぎに行って、採った貝を缶に入れて焚火につっこんで、それを食べながら遊んでいました。あとは「たっか」というカニやイカを釣りに行ったり。イカ釣りに行くよって親に言って、朝まで遊んでいたたこともありましたね(笑)。高校は島外の私立高校に進学しました。

 

東京での高校生活はどうでしたか?
島の同級生6~7人は島外の高校に進学していて、自分だけ一人暮らしでした。なので、週末は島の仲間が集まってきて、みんなで遊んでいました。仕送りがなくなると植木屋や、引っ越し屋のアルバイトをしていましたね。そこでお金を稼ぐことが大変だということを知りました。

 

 

島には定期的に帰ってきていたのですか?
当時は離島ブームで忙しい時代で、うちは自営業(米や飲料の卸売業)だったので休みのたびに手伝いに帰ってきていました。毎朝、軽トラに荷物をいっぱい積んで配達に行ったり、浜の売店に届けたり、力仕事が多かったので、先輩たちと一緒に働いていました。

 

そのときから島に戻ろうと考えていましたか?
長男だったので家業を継ごうと思っていました。高校では、特にやりたいこともなくて。そんな時に、父親から「島に冷蔵庫を修理する人はいないから、やったらどうだ?」って言われたのがきっかけで、修行するために東京で冷蔵庫などを修理する会社に就職しました。

 

島を出たからこそ学んだことはありますか?
仕事の大変さかな。朝5時に起きて会社に行って、分からないことばかりで。数時間しか寝ないで出勤することもあったし、帰れずに会社に泊まったこともありました。3か月の見習い期間が終わった後、1人で製氷機の修理に行ったんですけど、夏で汗だくの中、重いカバンをもって、電車に乗って、場所は新宿の歌舞伎町のスナックで。それは辛かったですね。

 

神津島に戻るきっかけは何でしたか?
東京が嫌だったんです。仕事って10年で1人前になるんだろうけれど、すぐ島に帰りたかった。でも「5年務めます」と約束していたので、責任感はあったから、それを守って帰ってきました。今思えば、やっぱりあと5年働いて、ちゃんと一人で作業できるようになって帰ってきたら、苦労が少なかったかな。島に戻った最初のうちは、修理技術もエアコンの取り付けも、「どうやったっけ?」と思うことが多くて困りました。漁協などの規模が大きい仕事で来島している業者に「給料なしでいいので、手伝わせてください」って頼んで、手伝いながら仕事を覚えていきました。

 

島では子どもたちにバレーボールを教えている清水さんですが、バレーボールと出会うきっかけは?
元全日本女子監督・岩本洋先生を招いて、島の子どもたちにバレーボールを教えるという活動があって、娘がそのチームに入ったのがきっかけかな。娘が小学校5・6年生の時なので14年前か。それから、娘が岩本先生の紹介で都立のバレーボール強豪校に入ったんです。試合がある度に親が車を出して、千葉や静岡などどこにでも連れて行ってましたね。飛行機代は夫婦でいくら使ったか分からないです(笑)。そうやって娘の試合の応援に行く中で、「バレーボールってこんなに面白いんだ!」って思ったんです。

 

バレーボールを島で教えるまでになった経緯は?
指導者だった役場の人が転勤で島を出てしまって、ジュニアバレーが途切れたことがありました。その後、小学校に赴任してきた金子先生という方がジュニアバレーの指導を再開すると聞いて、それを見に行ったんです。「面白いですね。いいことやっていますね。」って話をしていたら、「手伝ってもらえますか?」と誘ってもらって。それから、バレーボールの指導者として関わっていくことになりました。小学生の指導は、簡単だと思っていたけれど難しい。自分たちだけでは限界があるので、名門校のコーチを招いて教えてもらったり、東京に講習を受けに行ったりしています。

 

バレーボールをやっていてよかったなと思ったことはありますか?
子どもたちが上手になればそれが嬉しいです。サーブが入っただけでも嬉しい、レシーブが上がれば嬉しい。できるようになれば指導している甲斐がありますね。

 

教えるのを辞めようと思ったことはありますか?
指導者失格かなと思って、辞めることを考えたことが1度だけありました。けれど、自分が辞めちゃうと代わりがいないと思うんです。うちは自営業なので、従業員が「今日はバレーボールの日でしょ。行ってきていいよ」と言ってくれる。勤めている人はそういうわけにはいかない。代わりがいれば任せようとなるかもしれないけれど、今のところは自分がやるしかない、という気持ちで続けています。

 

これからもバレーボールに関わっていきたいですか?
体力が続く限りはやりたいと思っています。今は、大人チームもできて夜に皆で集まって練習をしたり、大会があったり。バレーボールって本当に楽しくて、高校生も一生懸命で、技術もうまくなってきて、そうするとライバルにもなるし、仲間もどんどん増えていく。ソフトバレーは20人ぐらい若いママさんが来てくれています。バレーボールをやっていなければ、つながりができなかった人もいるいだろうし、バレーボールがきっかけでみんなが仲良くなっていく部分もたくさんあると思うんです。


もちろんバレーボールだけじゃなくて他にも手段はあるだろうけれど、自分はたまたまバレーボールだった。なので、今後もバレーボールを通して地域とかかわっていきたいですね。体が動けるまでは。

 

私たち(高校生)に向けてメッセージをお願いします。
若い時には色んなことをやってもいいかな、と思います。だから島の外に出るのもいいと思う。自分に合うことがあるかもしれないし。適当にバイトしてるだけじゃ意味ないから、いろんな計画を立てながら、いろんな仕事をしてみてもいいかな。これをやってみよう、あれをやってみようって自分で決めていく中で「これなら神津島に帰っても仕事ができるかな」とか、いろんな選択肢が生まれてくる。やりたいことがなくても、島外で仲間ができれば、「この子はこんなことをやっているんだ!」って思うこともあるだろうし、島外の子たちと付き合うのもすごく勉強になると思う。
でも、やっぱり最終的には島に戻ってきて欲しい気持ちはあります。戻ってきてくれないと人口も減っちゃうし、エアコンも売れないし、お米も売れないしね(笑)。

 

【インタビューを終えて】

小林遼太郎
取材した、清水俊克さんは、バレーボールという自分の楽しいと思えることや、やりたいと思えることを通して、地域に貢献していた。バレーボールを通して、島の子どもたちや、子育てをしているお母さんたちなど、普段関わることがないような人がコミュニティを持てるようになることはとてもいいことだと思う。これから先、自分も地域の中でコミュニティを作れるようにするため、いろんなことにチャレンジをして、得意なことや好きなものを増やしていけたらいい。

清水千朝
今回インタビューをやってみて、俊克兄はバレーなどを通して島の人と繋がりを築き、その繋がりを大切にしているという事がよく分かった。
俊克兄のように、島の外に出て、新しい環境で、新しいことをすることは本当に大変なことだと思う。でも、それは大変だけど新しい経験を積むこともできるし、とても重要なことだとも思った。自分は高校を卒業したら島の外に出るけれど、将来島に戻ってきたいと思っている。そのために、島の人との関係は大切にしながらも、一度外に出て、たくさんの人と出会い、新たな経験をしてきたい。

鈴木海音
インタビューを通して、バイトなどでお世話になっている俊克兄とは違う面を知ることができた。例えば、バレーボールを教える立場として、自分に何が出来るかを考えながら関わっていること、島の子どもたちにバレーを教えている中で、知識が足りなくなったら東京まで行って講習を受けることを繰り返していることに驚いた。自分も俊克兄とバレーをやっていて、悪い所があったら指摘してもらったことがある。それは、こういう島のバレーを強くしたいという思いや努力があるからこそなのだと感じた。また、実際にバレーボールを通して、関わることがなかった島の大人の人と繋がりを持つことが出来ていて、それも俊克兄の想いのおかげだと感じた。
自分は進学で島を出ようとは思っているけれど、学校以外に計画を立てていることもなく、やってみたいことも決まっていないので、高校生への言葉を貰った時に少し焦りを感じた。島を出るまでにあと少し時間があるので、考えてみようと思う。

 

 

インタビュー:清水千朝、鈴木海音(神津高校3年)
写真:鈴木海音、小林遼太郎(神津高校3年)
企画・編集:飯島知代、中村圭(NPO法人神津島盛り上げ隊)
上地里佳(アーツカウンシル東京)