島で「幸せなターン」をしている人々にお話を伺い、その物語を共有する『HAPPY TURN/神津島 通信』。今回は海が大好きで、島への移住に興味がある横浜在住の十文字高校3年生、早狩夏葉さんが、Uターン1年目の鈴木允也さんにインタビュー。どうして島を出たのか、どうして島に戻ってこようと思ったのか、島でランドリーカフェの開業を目指しながら村役場に勤務する允也さんの移住ストーリーを、横浜と神津島をオンラインでつないで伺いました。是非最後までご覧ください。
~島暮らしを夢見る高校生がインタビュー~
高校進学を機に上京した青年が
ランドリーカフェ開業を目指し島にUターンするまで
名 前|鈴木允也(すずきまさや)さん
年 齢|33歳
職 業|村役場勤務
島在住|Uターン1年目
出身地|東京都神津島村
Uターンと伺いましたが、いつまで島にいましたか?
高校入学をきっかけに島を出たので、15歳まで島にいました。
島に高校があるのに、どうして上京しようと思ったのですか?
小さい頃から好きだった絵の勉強がしたくて都内の高校を探していました。その頃、羽田空港の近くに、全国初の民間から校長先生が誕生したつばさ総合高等学校が新設されたことを知り、1期生で入学しました。総合学校は簡単に言うと、大学の縮小版みたいなところで、必修科目にプラスして自分のやりたいことに合わせてカリキュラムが選べる学校です。美術はもちろん、スポーツ、音楽・芸能を専門的に学びたい人、工業系の人など、それぞれカラーが違う人たちが集まる面白いところでした。でも実際に上京してみると、学力をはじめ、自分の好きだった絵についてもレベルの違いをまざまざと見せつけられましたね。それまでは周囲22キロの小さな島が自分の世界のすべてだったので。田舎育ちの自分が、都会の新設校で高倍率を勝ち上がってきた同じ志をもった人達を前に“絵の勉強をしたい”って言っていいのかな……と、思い悩み、挫折したことを今でも鮮明に覚えています。当時の唯一の居場所は、下北沢にある伊豆諸島出身の人たちを専門に受け入れてくれる七島寮でした。同じ島育ちの人たちが身近にいるって、それだけで心の支えになりました。
そのまま、絵を描く仕事に就いたのですか?
心が折れてしまってから一時期は絵なんて描きたくもありませんでした。でも、そういう期間を経ると何故だか無性に絵を描きたくなるから不思議ですね。創作活動と仕事を両立できる職業をと考え、教員を目指すために大学に進学しました。でも、教員採用試験は惨敗。また勉強するかどうか考えていた時、自分の通っていた総合学校で特に印象的な先生の多くが、民間企業勤めの経験もある、変わった経歴を持っている方で、初めからずっと先生を目指していました!という人たちではなかったことに気が付きました。やりたい事に対して物凄い熱量を持っている人が多くて、こういう人たちが人の人生に関わるってすごく大事なんだなと感じて。だから、いずれ教員になるとしてもその前にもっと自分の世界を広げたいと思い、一般企業に勤めることにしました。
具体的にはどんなお仕事をしていたのですか?
採用されたのはアミューズメント企業です。リゾート部門があるというから惹かれたのに蓋を開ければバリバリのパチンコのホールを経営する会社でした。教員を目指していた頃の私は「ギャンブル=悪」くらいに思っていましたね。入社して最初の配属先は横浜の伊勢佐木町。教育実習先である母校で教えていた子たちがお店の前を通り、あれ?先生何やってるの?と言われて、考えさせられたこともありましたね(笑)。でも、この企業に入って本当に良かったと思いました。なんで自分は教え子たちに胸を張って今の仕事を誇れなかったのか考えると、自分の仕事に対する後ろめたさがあったからでした。アミューズメント業界を足掛かりにレジャー産業を盛り上げていこうとする熱意のあるその企業では、パチンコの持つ負のイメージを払拭しようと、新人研修は一流ホテルに負けない程厳しかったです。でも、その反面、安心しました。逆に業界のことをなにも知らないまま偏ったイメージを持っていた自分の固定観念や、世間でもそういう目で見られてしまう部分を見直さなきゃいけないと思いましたね。それから仕事に打ち込む姿勢も変わってきました。そのうち、元々教員を目指していたこともあり、人の人生に関われる新卒採用の人事や、サービスの質の向上を指導する部署で仕事をするようになりました。
どのくらい働いていたのですか?
なんだかんだ5年くらい勤めましたね。辞めるきっかけになったのは、色々な人たちの人生に触れる仕事って面白いなと思う反面、心にくすぶっているものづくりへの気持ちがあって。父が土木関係の仕事をしていたのもあり、建築の世界にシフトしました。リノベーション会社です。職人さんたちの仕事を間近で見られる施工管理をしていました。ただ薄給な上に、仕事自体もしんどかったです(笑)。
島に戻るきっかけは何でしたか?
建築関係の仕事をしながら2年くらい経った頃、遠く離れた地元で、後輩が綺麗な星空を撮っていたり、新たな取り組みを始める若い人たちが出てきたりというのをSNSで知りました。自分では気付かなかった地元の魅力をその人たちから教わった気がします。社会人7年目、30歳目前の、今から4年前でした。そんな島にいる人たちに感化されて、島で生まれた自分だからこそ発見できる魅力を発信していきたいなと思い始めました。
将来、島でランドリーカフェをやりたいと伺っていますが、どうして「ランドリーカフェ」なのですか?
サラリーマンをしていると毎月、決まった額の給料が通帳に振り込まれる。それはとても有難いことだけど、何に対して支払われたお金なのかわからない……そもそも自分でなくてもよい仕事だよなと考えていた頃、自分が手がけた物(仕事)に対しその対価としてお金を得る職人さんたちを見ていたら、同じお金を貰うなら、自分だからできる仕事でお金を貰いたいと思ったんです。そうした視点で見たとき、島に足りない物や、島の人が困っていること、実は気づかないけれど不便に感じているものが何かないかな、と考えました。最初は何でもよかったんです。カフェでも、宿でも。もともと祖母が旅館をやっていたので、建物もあるし、宿泊施設が減ってきている今、観光客の受け皿となる宿が必要だと思ったこともありました。でも、そもそもなぜ宿屋さんが少なくなったのかを考えたとき、理由の一つに“手間がかかるから”というのがあって。夏場の観光シーズンでは大量のリネンの洗濯物が出るけれど、夏場は台風のシーズンでもあるので洗濯したのに外に干せない!なんて日常茶飯事。通常の宿がリネンの洗濯に費やす時間は3〜4時間と言われています。それに加えて、食事の支度、お客様の送迎もあります。“この島にあったらいいな”の一つは宿屋さんではなくて、宿屋さんの負担を少なくして、宿屋さんを始めたい人が増えるような仕組みじゃないかなと考えました。だから、集荷からお届けまで一手に引き受ける洗濯の代行サービスを行うコインランドリーをやろうと決めました。コインランドリーがあれば宿屋さんじゃなくたって、子供の多いお家とか、ひとりで暮らすお年寄り、観光客たって洗濯に困ったときに利用できますよね。そして、洗濯を回している間にお茶が楽しめたり、近所の人たちとふれあいが生まれたりとか、そういう憩いの場も提供したいという思いもあって、ランドリーだけではなく、カフェも一緒にやろうと決めました。
【ランドリーカフェ予定地】
実際に島に戻ろうと思ってから、移住を実行するまで、どのくらいの期間かかりましたか?
島で何か出来ないのかなと思うようになって、構想を始めてからだと3〜4年です。えい!って島に来る前にもう一段階あって、2年半働いていたリフォーム会社から、契約社員で大手企業に勤めるようになりました。契約社員なので、時間的な自由度がある上、副業OKで、その時間を島に戻ってくる準備や将来のための時間に充てました。コインランドリーの運営に資格はいらないのですが、洗濯物を預かり代行するサービスとなると、クリーニング師という国家資格が必要で。資格取得を目指したのですが、業界の人や、服飾関係の専門学校に通う人が取るような資格なので、専門書がなかなか手に入らず、1回目の試験は惨敗でした。途方に暮れていた頃、以前、日本で初めてランドリーカフェを出店した学芸大学にあるフレディレックウォッシュサロントーキョーの責任者の方を訪ねていた事があって、その方から「サロンワークのお手伝いをしながら、クリーニング師の勉強もしてみませんか。」と連絡をいただきました。おそらく人生で一番嬉しい連絡でしたね。そこで勉強しながら働いて、2年目にして受けた資格試験は合格。晴れてクリーニング師となりました。合格したことも嬉しかったのですが、何よりもこのサロンで過ごした時間がかけがえのないものでしたね。
【クリーニング師資格取得の際、学芸大学のお店の恩人・松延氏と】
島に帰って来るときに楽しみでしたか?不安でしたか?
地元に戻ることに不安なんてないんじゃない?と思われがちなんですけど、全然そんなことなくて、むしろ不安しかなかったですね。人生の半分以上、外で暮らしていただけにまさに浦島太郎状態。人間関係がうまくやっていけるかすごく不安でした。ましてや役場の職員となると村の人たちとの関わりが強い職場なので、自分でも驚くほど人見知りをして苦労しました(笑)。そして、妻。出会い自体は島なのですが、狭いコミュニティで暮らしていけるのか心配でした。でも、ランドリーカフェにはどうしても妻の協力が不可欠です。最後は乗り掛かった舟だと、腹をくくりついてきてくれました(笑)。
実際に帰ってきてからはどうですか?
夢に対して一歩一歩でも進んでいるなという感覚があるので、それは良かったです。将来的にやりたいことに対して、「楽しみにしているね。」と、リアクションしてくれる島民の人たちがいて。自分がしようとしていることは間違いじゃないのかなと思えています。
私は海が好きで、海のきれいなところに将来的に住むことに興味があります。友達の出身地である神津島に遊びに行って、神津の海のきれいさにとても感動して、将来住みたいな、という気持ちもあるのですが、そう簡単に移住できないという話も聞きました。Uターンした允也さんは、今後移住者を受け入れたいという気持ちはありますか?
そうですね、島の外からの刺激は必要だと思います。Uターンだから、Iターンだから、地元の人だから、というわけではありませんが、様々な経験をしてきた人たちが集まっている方が自分は楽しいと思いますね。それと、夏葉さんの海が好き、という気持ちがすごく大事だと思います。この人は島のことが好きで来てくれたんだなというのは島の人に伝わるし、島にマイナスに働くことって絶対ないと思うので。新しいことや人に対して初めは身構えちゃったりするかもしれないけど、外からの刺激だったり、新しいものを、実は必要としている人も多いんじゃないかな?と感じます。最近、その橋渡し役がUターン者なのかなと思うこともあって。Iターン者と地元の人たちとの間に入ってできることを、ランドリーカフェを通じてやっていけたらいいと思います。
「インタビューを終えて」
早狩夏葉
今回インタビューをさせていただいて一番印象に残ったのは、允也さんの何に対しても果敢にチャレンジしていく姿勢の素晴らしさです。私はなかなかやろうとしてもアクションを起こすことができないのですが、私とは反対に状況に応じて様々なことにチャレンジし、そこでの経験をすべて次につなげていく姿に、とても多くのことを学びました。また、やりたかったことがすべてうまくいっているわけでなく、ときには挫折したこともあったとお話しされていましたが、そこで挫けず、新たな道でも決して自分の軸はぶらさずにやってこられた允也さんだからこそ、夢の実現に向けて一歩ずつ進んでいるのだと感じました。最後に、Uターン者である允也さんが「Uターン者は外から来る人と島の人との架け橋のような存在だと思う」とおっしゃっていた言葉が忘れられません。神津島に帰って来られて、そんな思いを持って生活している允也さんからは、神津島への愛が感じられました。私もこの先、地元に何か貢献できる大人になりたいと思いました。今度神津島を訪れた際はランドリーカフェに足を運んでみたいと思います。最後に今回のインタビューを通して神津島の素晴らしさや移住に対する考えをまた違った視点から感じることが出来ました。とてもよい経験をさせていただくことができ、多くの方々に感謝しています。ありがとうございました。
インタビュー:早狩夏葉(十文字高校3年)
編集:飯島知代(HAPPY TURN/神津島)
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